( ゚Д゚)<philosophy of language

「方言は、ある社会を特色づけるものである。その特有の語風を無視してしまうと、意味深い人物を生んだかもしれない社会組織全体を無視することになりやすい。人物たちをその社会から切り離しておいて、個人としての彼らについて多くを語るということはむりなのだ。存在が信じられて、意味もある社会的な場に人物を入れなかったら、その人物のはらむ神秘について中身のあることなど何も言えない。言おうと思ったら、最善の方法は、人物自身の言葉を使うことである。アンドルー・ライトルの短篇で、老婦人が「私は、バーミングハムより年をとったらばを持っている」と軽蔑した口調で言うが、あの一行の中に、ある社会とその歴史の感じが出ているのである。南部の歴史はわれわれの話しぶりの中に生きているのだから、南部作家のすべき作業の多くは、彼が書きだす以前にすんでいると言うべきだ。ユードラ・ウェルティの作品の一つで、人物の一人がこう言う──「私の出てきた所では、番犬のかわりに狐を使い、鶏の用はふくろうが足すんです。だけど、私らの口から出るものは本当ですよ。」この文ひとつの中に、優に本一冊分のものがある。周囲の人びとがこのような話し方をするときに、それを無視したりすれば、それはただ自分の持つものを利用していないということなのだ。われわれの話し言葉の響きは、あまりにも明確な特性を持っている。これを捨てたりすれば、必ず重大な欠落に悩むだろう。」
フラナリー・オコナー「物語の意味」)