( ゚Д゚)<Hello Kitty

「書物の生命は、それを左右することができると信じ込んでいる主体と同一ではない。貸した本がなくなったり、借りた本がいつまでもあったりするのは、このことを根源的に証明している。だが書物の生命は、所有者がそれを内面化しようとすることにも逆らう。つまり、書物の所有者が、書物の内容の配置だとか、いわゆる論理の信仰だとかについて知識を得たと思うと、書物の生命はそういう知識に逆らうのだ。書物の生命はその所有者をたえず誑かす。テクストを確かめなかった引用が合っていることは滅多にない。書物との正しい関係とはおのずから成り立つ関係である。つまり、書物の第二の、付録的な生命が欲するものに身を任せることであり、第一の生命に固執しないことである。第一の生命などというものは、たいていの場合読者が恣意的に拵えあげたものにすぎないのだから。書物とおのずから成立する関係をもてる人には、書物は求めるものを思わぬときに折々贈ってくれる。ぴったりの引用などは、探しても見つかるものではなく、恩寵によってあたえられるのが普通である。何か実質のある書物ならどれも読者と遊ぶものだ。書物のここでの遊びの規則を推測して、無理にでなくそれにこちらを合わせるのが、よき読者というものであろう。
 ……
 書物が自立的にもっている生命は、女性たちが一般的に、思い入れをこめて、猫がもっていると信じている生命と似ている。猫は飼い馴らされることのないペットである。所有物と見なして、いつも目の届くところにおいて、いいように扱おうとすると、猫はどこかへ行ってしまう。主人が書物を図書室に整理することを拒むなら──書物とまともな関係をもつ人なら図書室で、自宅の図書室でさえ、居心地が好いとはとても思えない──いつもいつも、どうしても必要な書物に限って主人の支配を逃れ、姿を隠し、偶然によってだけ戻ってくることになるだろう。多くの書物はスピリッツ(霊)のようなもので、何か特別のことを意味するとなると途端に、見えなくなってしまう。書物のなかに何かを探そうとする時の、書物の抵抗はもっと始末が悪い。書物のなかのただの個々の箇所を探るような、百科事典を見るような眼差しに、書物は復讐しようとするかのようだ。こういう眼差しはその書物自身のあり方に無理をくわえるから、書物のほうでも他人の言うことなど聞くものかということになるのだろう。」
アドルノ「書物を愛する」)