( ゚Д゚)<神々・混沌・他者・不死

「忘却は、永遠に生成しつづけることと、あらゆる同一性が存在のなかに吸収されることを包含している。
 ニーチェによって生きられた体験においては、啓示された内容と、次のように言語化されたその内容(倫理的教説としての)とのあいだに、秘められた二律背反があるのではないか。すなわち──おまえは、あたかも同じ生を数かぎりなく繰り返して生きなければならないかのように行動せよ、そして、同じ生を数かぎりなく生きることを欲せよ──というのも、いずれにせよおまえは、ふたたび生きなおし、ふたたび始めなおさなければならないからである。
 前半の命令節は、(力への)意志に呼びかけることによって忘却(必然的な)を補完している。第二の節は、忘却のなかに必然性が紛れ込んでいることを予見している。
 回想〔アナムネース〕は〈回帰〉の啓示と一致する。〈回帰〉はどうして忘却をもたらさないことがあるだろうか。わたし(ニーチェ)は、必然的な回帰の真実がわたしに啓示されたまさにそのときに、円環の永遠性が頂点をきわめる枢要なる瞬間に、わたしがたち戻っているのを知るばかりではない。そればかりではなく、その回帰の真実を忘れたがために、わたしはいまあるものとは違ったものでいままであったこと、したがって、それを知ることによってわたしは違ったもの - 他者になったこと、そのことも同時に知るのである。わたしはまた変わるのだろうか。そして、わたしが永遠のあいだ──ふたたびその啓示を知ることになる日まで──必然的に変わりつづけるであろうということを、わたしはいま一度忘れるのだろうか。
 強調されなければならないのは、与えられた同一性の喪失である。「神の死」(責任ある自我の同一性を保証するものとしての神の)は、魂に対して、ニーチェの魂のさまざまな〈気分〉のなかですでにおののきをもって感知されていたあらゆる同一性の可能性を開くのだ。〈永劫回帰〉の啓示は、必然的に、あらゆる可能な同一性を次々に実現させる。「歴史上のあらゆる名前、結局それはわたしである」──そして最後には「ディオニュソスと、十字架にかけられし者」。「神の死」は、〈永劫回帰〉の恍惚の瞬間とおなじ資格で、ニーチェにおけるある一つの〈気分〉に対応しているのである。」
ピエール・クロソウスキー永劫回帰の体験」)