( ゚Д゚)<女のまなざし

「それ以来、私たちは一度も逢っていない。いや、私たちは同じ区街で働いていたので、街頭ですれちがうことがときどきあった。彼女はいつものように足もとに眼をおとして、静かな流れに運ばれるようにやって来て、私の胸もとに向かってそっと会釈する。夕風に吹かれる草の穂のように、さまざまな表情を含んでいながら私に対しては何ひとつ定まった表情をもたない会釈だった。足取りがゆるんだ時、スカートのひだのかすかな翳りに、あの夜のことがわずかに思い出された。そして私たちはすれちがう。ところが、たがいに背を向けて遠ざかっていくその時になって、私ははじめて彼女とすれちがいつつあるのを感じるのだ。穏やかにうつ向けられていた白い額の、静かさが私を驚かす。そこには成熟の予感が息をこらしている。彼女はいま年齢というもののない境にしばらくとどまって、まもなく時の流れに身をゆだねるのを待っているのだ。何かが実際にゆっくりと傾いてゆく。それなのに、私は、まるで目覚め頃の少年みたいに、うっとりと老いを夢見ている。
《つぎの木曜日に、お会いしたいのですが……》と彼女は電話で言った。
 木曜日の夜、私は喫茶店でその眼と向かいあって坐っていた。夕暮れの中をゆっくり帰ってくる子供のように、暮れてゆく空ほどに広々と開いて、あらゆるものが飛びこむままに、静かに吸いこんでしまう眼、それでいて何ひとつ見つめようとしない眼だった。この眼をこちらに向かせ、縛りつけたいという欲望が、また私を捉えたのか、それとも一年前に別れなくてはならなかったことを忘れずにこの機会をやり過ごすつもりなのか、私自身にもまだわからなかった。彼女は遅れてやってきた私が煙草を吸いおわるのを待っていた。やはり何か大事な相談があるらしかった。そこで私は煙草を置き、小さな密室を二人の間につくり出すように坐りなおし、額を彼女のほうに傾けた。……」
古井由吉「木曜日に」)