( ゚Д゚)<子宮にご用心

「御婦人方との交際で、頭脳を駄目にしないように気をつけたまえ。子宮のなかにきみの才能をおき忘れることになるよ。……男としての精力は、文体のためにとっておけ、インク壷にぶちかますのさ、生身の女にはのぼせぬことだ、よく頭のなかに叩きこんでおけ、(ジュネーヴの)ティソが言うように(『自慰についての概論』七十二ページ、図版参照のこと)精子一オンスを失うことで、血液三リットル以上の疲労をもたらされるのだ。」
フロベール「エルネスト・フェドー宛書簡」)

( ゚Д゚)<Das nihilistische Spritzen

「芸術家はおそらくはその天性から言って必然的に官能的な人間であり、総じて激しやすく、あらゆる意味において親しみやすく、刺戟に、ほんのちょっとした刺戟の暗示にも動かされやすい。それにもかかわらず、ならして芸術家は、その課題、その傑作への意志に強力にとらえられているので、事実上は、自制的な、そのうえしばしば貞潔な人間である。支配権をにぎっているその本能がこのことを彼に要求する。この本能が、しまりもなくわが身を消耗することを彼に許さないのである。芸術的懐妊のさいに放出する力と、性交のさいに放出する力とは、まったく同じものであり、すなわち、ただ一種類の力しかないのである。ここで屈服するということ、ここでわが身を浪費するということは、芸術家にとっては裏切り行為である。」
(エリーザベト・フェルスター=ニーチェ編『権力への意志 第三書』)

( ゚Д゚)<イヤッホオォォォォオオォォオオゥ!!!

「マーラは、ぼくを見てびっくりした。すぐに家へつれて帰って介抱したいと言った。ぼくは消耗しきって、そばに人がいることにさえ耐えられなかった。急いで別れを告げた。
「明日会おう」
 ぼくは酔っぱらいのようにふらふらしながら家へ帰るなり寝椅子にぶっ倒れ、麻酔薬でもかけられたように昏々と眠りこんだ。目がさめたのは夜明けだった。すばらしく気分がいい。起きあがると、公園へぶらりと散歩に出かけた。白鳥どもも生気をとりもどしつつあった。こいつらには乳嘴突起は全然ないんだ。
 苦痛がやむと、たとえ金がなくても、友人がいなくても、遠大な野心がなくても、人生はすばらしく見えるものだ。ただ楽々と呼吸し、急激な痙攣や発作もなく歩くだけでよかった。こうなると白鳥もひどく美しかった。樹々もそうだ。自動車ですらそうだ。生命がローラー・スケートにのって坦々とすべってゆくのだ。大地は孕み、絶えず空間の新しい磁力の場をかき乱していた。ちっぽけな草の葉の刃を風がいかに吹きまげるかを見よ! 小さな葉の刃の一つ一つが感覚をもっていた。あらゆるものが敏感に反応した。もしも大地が苦しがっていたなら、われわれは何をすることもできないだろう。天体は決して耳痛に苦しむようなことはない。たとえ内部で、いうにいわれぬ苦痛や苦悩に耐えていようと、天体は病毒には免疫なのだ。
 あとにもさきにも、ぼくは、はじめて定時よりも早く会社へ出た。いささかの疲労もおぼえずトロイ人のように根気よく働いた。約束の時間にマーラに会った。彼女は、きょうも公園のおなじ場所のベンチに腰かけて待っていた。」
ヘンリー・ミラー『セクサス』)

( ゚Д゚)<Re: antipornography

「われわれが対象を感知しようとしているさいの体験を思い浮かべてみると、感覚と概念化の中間に、イメージ照合の過程があることが分かる。これこそ、感知機能の主要な部分である。このイメージ照合の機能を錬磨することにより「読みとる」能力を高めようとするのが、イメージ・トレーニングである。ただし、イメージと言うと通常、視覚イメージを思い浮かべることが多い。現代人の生活習慣がそうなってしまっているせいだから仕方がないことではあるが、より原始的作業である精神療法にとって、この限定は致命的である。五感イメージ・トレーニングとは、イメージ能力の原初のありようを再活性化する試みである。すなわち、「眼耳鼻舌身」によって捉えられる「色声香味触」の五感すべての領域で、イメージ照合の努力を続けることで、五感それぞれのイメージ界を活性化しようとするのである。そのさい、五感をばらばらに錬磨するよりも、同一の対象に五感をそれぞれ向けるのがよい。花を見、手に取り、香りを嗅ぎ、蜜を舐めてみるのがそれである。
 ……
 しばらくこのトレーニングを続けていくと、五感イメージが総動員されやすくなってくる。そうなることは、幻想機能を脹らみやすくすることである。客観的、科学的対象把握を志している人びとには、受け入れ難い方向であるかもしれない。しかし、精神療法における「読みとる」「関わる」「伝える」の三つの技術の冴えは、ほとんど、この幻想機能の冴えに懸かっているのである。
 例を挙げて説明してみよう。ポルノグラフィーというものは、客観的、科学的には視覚イメージのみを伝達する。試みに、そう限定して眺めてみると、まことに味気ない。写真という対象自体には具わっていない、聴覚、嗅覚、味覚、触覚それぞれの領域での感覚イメージをつけ加えることで、ポルノグラフィーは官能の世界となる。精神療法において治療者はしばしば、こうした自他によってつけ加えられた感覚イメージと関わりをもつ。そのさい、治療者の幻想機能の豊かさが問われる。ちなみに、多くのヒトにおいて、性愛の世界にはまだ自然な行動パターンとしての五感の総動員が残っている。それゆえ、性愛の世界を五感イメージ・トレーニングの場と心得て活用すると、それが対人関係であることもあいまって、一挙数得であるかもしれない。ともあれ、あらゆる機会を捉えて、イメージ能力の原初のありようを再活性化するよう努めてほしい。
 五感イメージ・トレーニングがある程度進んできたら、つぎに、五感それぞれの領域に由来する形容詞や副詞や動詞などを、他の感覚領域で使うことを試みて欲しい。触覚由来の「冷たい」や「ザラザラした」を視覚印象や音の描写に使ってみるのである。そうした使い方は文章技術として普段に用いられている。また、多くの人は意識せずに、日常その種の言い回しをしている。それゆえ、いまさらしてみるのも馬鹿らしいと受け取る向きもあるかもしれない。せいぜい伝える技術の習練だと考える人もあろう。そのいずれも、誤りである。これは、五感イメージ・トレーニングの統合の方策なのである。種々の形容詞や副詞をその起源を考えて味わい、他の感覚領域へ転用していると、五感それぞれの領域に重なりが生じ、境界が不鮮明となり、その結果、感覚イメージのきめが濃やかになる。すなわち、そうした言葉の転用をつづけていると、五つの感覚領域の境界がぼやけ相互の融合が起こってくる。そして究極には、五感イメージの融合した一個の感覚統一体のようなものが外界を捉えるようになる。
 そこに至ると、五感で捉えられる事象それ事態ではなく、刻々と移りゆく事象を連ねる流れが感知されるようになる。俗に第六感と呼ばれるものがこれである。」
神田橋條治『精神療法面接のコツ』)

( ゚Д゚)<日曜礼拝の内的体験

「俺の頭上を列車がごとごとと音をたてて、一輛一輛と駅に入っていった。俺の頭のなかで酒樽がぶつかりあった。どろっとした黒ビールが樽のなかでぴしゃぴしゃとかきまわされて泡だった。ぶつかって穴がいくつもぽっかり開いて、そこからどろっと大量にふきだし、合流して、泥の湿地をうねうねと流れ、平たい土地一面をひたしながら酒はのたりのたりと溜り渦巻き、満開にひらいた薔薇の花のような泡を運んでいった。
 俺はオール・ハローズ教会の開いた裏口の前まで来た。ポーチにはいって行きながら帽子をぬぎ、ポケットからカードを出し、元通り帽子のびん革に差しこんだ。あーあ、マリンガー行きの無料切符を手配してくれとマッコイに頼んでおくんだった。
 ドアにもふたたび掲示がある。イエズス会士ジョン・コンミー師による説教、イエズス会士聖ペドロ・クラベルとアフリカ伝道についてだって。カトリックの連中はグラッドストンが昏睡状態に陥ったとき彼の改宗を祈ったりしたよな。まあ、ヤバさだったらプロテスタントも負けてはいないが。神学博士ウィリアム・J・ウォルシュを正しい宗教に改宗させたいという狂った情熱。さらには何百万もの中国大衆を救済するための布教活動。中国人の異教徒ぶりは明白なのに、どうやって説得するつもりだったんだよ。神よりもまだ阿片一オンスのほうがありがたがられるだろうに。中国人、すなわち至福の民。国立博物館の玄関ホールに寝そべっているブッタ像が彼らの神。線香の香りと頬杖をついたゆったりした姿勢。荊棘の冠と十字架のキリストの像とは大違いだ、中国人にはとんでもない異端邪説と見えることだろう。そう考えると、シャムロック〔アイルランド守護聖人が用いた三つ葉の植物〕ってのは聖パトリックのグッド・アイディアだったな。箸。コンミー。マーティン・カニンガムの知人。威厳のある顔。ああ、あの神父に頼めばモリー聖歌隊に入れてもらえる望みがあったのにな、ファーリー神父なんかに頼んだのが運のつきだった。実は抜け目ないのに善人面をしてる神父、ああいう面がまえを普段から仕込まれてるんだろうな。あの善人面のまま、青いサングラスをかけて遠路はるばる黒人どもに洗礼をさずけに行くのだ。眼鏡はキラキラしているから黒人を惹きつけるだろう、黒人どもが輪になったころはさぞ見ものだろう、分厚い唇で、うっとり聞き惚れて。静穏。神父の言葉をミルクみたいにしゃぶりつくして。
 神聖な石の冷たい匂いが俺を呼びさました。俺はすりへった石段を踏み、スウィングドアを押して祭壇の裏側からそっとはいって行った。
 何かやっている。信者どもの群れ。気の毒なことに空席だらけだ。わたしの隣人とは誰ですか?〔ルカ伝〕 若い女の子の隣りに坐っても教会内なら目立たない。ゆるかやかな音楽を聞きながら何時間も肌が触れそうな近くに坐りつづけることができる。かつての深夜ミサのときのあの美人、たまらない、まさに第七の天国だったな。女たちは首に深紅のスカプラリオを結んでベンチにひざまずき頭を垂れている。祭壇の前にも何人かいる。司祭が両手に例の聖体器を捧げ持って、むにゃむにゃ言いながら彼女たちのあいだを歩いて行く。一人ひとりの前で立ち止まり、聖体のパンを一かけら取り出し、一滴か二滴しずくを切って(葡萄酒にひたしてあるのか?)手際よく口に入れてやる。女の帽子と頭とがさがる。さあ次のひと。その帽子がまたすぐにさがる。さあ次、小柄なお婆さんだ。司祭はかがみこんで彼女の口に入れてやりながら絶え間なく祈りの言葉をつぶやいている、ラテン語。はい次。さあ目をつぶって口を開けてごらん。そういやあれはなんて言葉だっけ? 〈コルプス Corpus〉、つまりキリストの肉体。死体〔Corpse〕。ラテン語を使っていれば意味不明でもありがたがられるのだ。臨終を迎える者たちを煙にまく。婆さんは噛まないでどうやら丸呑みしてるみたいだな。しかし死体のかけらを食べるってヤバい思い付きだぜ。人食い人種たちには大人気だろうが。
 俺が片隅に立って眺めていると、女たちの放心した顔がつぎつぎに側廊を歩いて自分の席を見つけて坐る。俺は一つのベンチに近づいて、帽子と新聞紙をかかえたまま端に腰をおろした。こんなダサい山高帽をかぶってきたのは失敗だった。われわれは自分の頭に合わせて帽子をオーダーメイドするべきなのだ。俺の周囲で、深紅の胸当てをつけた女たちがじっと頭を垂れたまま、胃のなかで聖体が溶けるをの感じている。過越祭のマッツォみたいなパン、出エジプト記に出てくる酵母の入っていないパンでも、彼女たちは幸せな気分になれるのだ。子供にとっての飴玉みたいなものか。あいちゅひとちゅがいちぺにー。そういや天使たちのパンとかいう名前がついていたっけ。とにかくヤバい思い付きだ。死体のかけらを食べれば神の国が自分の体内にあると実感できるというわけ。聖体を拝領するだけでみんなが同じ共同体に属しているみたいな気分になれるんです。劇場に居合わせた客同士みたいにみんなが同じ流れに乗る。もう淋しくなんかないのです、わたしたちの教団へようこそ。しかも礼拝では鬱憤も晴らせて、いくらかパーティー気分だ。信じればそれだけでハッピー。ルルドの奇跡、忘却の水、ノック村でドッキリ聖母出現、血をだらだら流すキリスト像、まあとにかく一から十まで信じることだね。告解室のそばで年寄りが居眠りしてるじゃないか。さっきからのいびきの音はあれか。盲目的信仰。み国の来らん腕に安らかに抱かれて。あらゆる苦しみを癒す。死ぬまで眠ってな。
 見ていると司祭は聖餐杯を片付けはじめた。しっかりしまいこんでから、その前でちょっとひざまずいたとき、レースの裾から大きな灰色の靴底がのぞいた。あそこのピンが無くなったら大変なことになりそうだな。おっ、後頭部に禿げがあるぞ。悲惨。背中には文字。I・N・R・Iかな? いやI・H・Sだ。あれについてモリーに聞いたら面白いことを言ってたっけ。わたしは罪を犯した〔I have sinned〕。違うな。わたしは苦しんだ〔I have suffered〕、か。もう一つは? 鉄の釘は打ちこまれた〔Iron nails ran in〕、か。
 ねえねえお願いいつか日曜日にロザリオの祈りのあとでお会いしたいわ。ヴェールをかぶり黒のバッグをさげてやって来る。暗がりのなかで逆光を浴びて。公の場では首に紐なんか巻いていても陰でこそこそまるで違うことをするのだ。カトリックの連中はみんなそうだ。あいつ、無敵革命党で同志を裏切って釈放されるために検察側の証人にたったあの男、ケアリーという名前だったか、あいつもこの教会で毎朝聖餐を受けてたものだ。ピーター・ケアリー、そうそう、いや違う、ペドロ・クラベルが頭に引っ掛かってたからピーターなんて。そうじゃなくてデニス・ケアリーか。家に女房と子供が六人いるくせに身のほど知らずの暗殺をくわだてて、まったくどうしようもないやつだよ、猫っかぶりの篤信者。まさしく。猫っかぶり、これこそカトリックの連中にぴったりの形容だ。いつ見てもどことなくずるそうな感じがするし、まともな商売人は一人もいない。いや、いないだろう、彼女がここに来るはずがない。あの花? いや、いない、いるわけがない。ところでおれは封筒をちゃんと破り捨てたかな? うん、陸橋の下で。
 神父は聖杯をゆすぎながら残りの葡萄酒を一息で飲みほした。葡萄酒。ふむ、大衆的なギネスの黒ビールとか、ウィートリー製のダブリン・ホップ・ビターズとか、キャントレル・アンド・コクラン商会のジンジャーエール(香料入り)とかみたいな飲料を飲むよりは、貴族的ではある。葡萄酒。しかし参列者にはちっとも飲ませてくれない。パンのほうだけ。お供えものじゃあるまいし。ケチなもてなし。くだらない敬虔さの演出。無理もないのか、そうしないとアル中どもが次から次へとやってきて酒にありつこうとして、雰囲気が台無しになるから? そうか。やむを得ないね。ぐうの音も出ないほど合理的でございます。
 俺は聖歌隊のほうを振り返った。今朝は音楽はやらないらしい。残念。ここのオルガンは誰が弾くんだろう。グリン老人、見事なヴィブラート、あの爺さんはオルガンの鳴らし方を心得ていたぜ。ガーディナー通りの教会で年に五十ポンドもらっていたというのは本当かな。あの日のモリーは素敵な声だったな、ロッシーニの『聖母ハ立テリ』を歌ったとき。冒頭にバーナード・ヴォーン神父の荘重たる説教。キリストかピラトかどちらを選ぶ? いやまあ、キリストを選びますけどね、しかし何時間もその話をやらないでくださいよ、結論はわかり切ってるんだから。みんなは音楽を聞きたがっていた。音楽が始まる前の一時には足ずりがぴたりとおさまって、ピンの落ちる音すら聞えそうなほどだった。モリーにあの場所に向って思いきり声を張れよと俺は教えておいた。人々の興奮がずんずん高まり、極限まで張りつめ、みんなが見あげて、
  〈誰カアラン!〉〔『聖母ハ立テリ』第三連の冒頭〕
 旧い宗教音楽には素晴らしいものがあるよな。メルカダンテ、七つの最後の言葉。モーツァルトのミサ曲十二番、なかでも《グローリア》。作曲家なんかにも目を掛けて、昔の法王連中は音楽にも美術にも、あらゆる種類の彫像や絵画にも熱中していたものだ。命あるかぎり人生を楽しもうという果敢な姿勢。聖歌を歌って、規則正しい生活をまもって、おまけにリキュールまで醸造して、申し分ない生活じゃないか? ベネディクティーズ。緑のシャルトルーズ〔ともにフランス産のリキュール〕。しかしボーイ・ソプラノを去勢して声変わりをふせいだというのはちょっとイカれた趣味だな。どんな感じの声だったんだろう? 自分たちの逞しいバスと一緒に去勢した男たちの声を聞くのはめちゃくちゃ違和感あったんじゃないか? ゲテモノ趣味。しかし去勢されたほうはそのおかげで何も感じず、穏やかな気分で、何の悩みもなかったのかも。だからぶくぶく肥る。大食漢で、背が高く、脚は長い。去勢。一つの解決策だ。
 見ていると司祭はかがみこんで祭壇に接吻し、それから向き直って人々を祝福した。みんなは十字を切って立ちあがった。俺もちょっと遅れて立ちあがり、人々の帽子越しに前を見た。そうか。福音書の朗読タイムだから立ったんだな。朗読が終わって、みんながふたたびひざまずくと俺もそっとベンチに腰をおろした。司祭は例のミサ典書を捧げ持ちながら祭壇から降りてきて、ラテン語でミサ・ボーイと問答をした。それから司祭はひざまずいてカードの言葉を読みはじめた。
「われらのより頼みと力にまします天主……」
 俺は言葉を聞き取ろうとして顔を突き出した。英語だ。これなら噛み砕きやすい。おれも少しは覚えてるはずだ。ところでこの前ミサに来たのはいつだっけ。「永福にして原罪なき童貞……」。その夫ヨセフ。ペトロとパウロ福音書はこの辺の事情がわかるとずっと面白くなるんだよな。たしかに教会ってのは唖然とするほどすごい組織だ、まるで時計仕掛けみたいに完璧に動く。告解のシステム、あれもヤバい。なぜかみんな先を争って告解したがる。では何もかもお話させていただきます。悔悛。どうかあたくしを罰してください。教会は大変な武器を握ってるんだ。医者や弁護士どころじゃない。とくに女はうずうずしてる。それからあたくしシュシュシュシュシュシュ。それであなたはチャチャチャチャチャしたのですか? なぜしましたか? うつむいて自分の指輪を見つめながら言い訳をさがす。囁きの回廊の壁に耳あり。亭主が聞いたら卒倒しかねない。神様のドッキリ大作戦。終わって出てくる女。羞恥は可憐だが、後悔は上っ面だけ。祭壇でお祈りをして、めでたしめでたし。花々。溶けていく蝋燭。女の顔の赤らみを隠す。そして悔い改めた売春婦は聴衆に向って演説するだろう、わたしはいかにして神を見出したか? 実のところそれが救世軍の原型だ。頭の切れる連中がローマに腰をすえてそれをパクったんだよ。金だってうんと掻き集められる。遺産だって来る。当面は教区の司祭さまの意のままに使用せられたく寄付。わが魂の平安のためにドアを開け放ち公開のミサをあげられたし寄付。男子修道院と女子修道院。ファーマナ州の遺言書事件で証人席に立ったあの司祭はどっしり構えて、何を訊かれてもすきのない答えをした。「母なる教会の自由と栄え……」。初期キリスト教会の聖父たち。彼らが膨大な神学の骨組みをつくったのだ。
 司祭は祈った。
「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを守り、悪魔の兇悪なるはかりごとに勝たしめたまえ(天主の彼に命を下したまわんことを伏して願い奉る)。ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を、天主の御力によりて地獄に閉じこめたまえ」
 司祭とミサ・ボーイが立ちあがって退出した。一切は終わった。女たちはあとに残った。感謝の祈り。
 そろそろ抜け出したほうがいい。ぶんぶんうるさい平修士が盆を持って回ってくる。復活祭の義務を果してください。
 俺は立ちあがった。あれ、おれのジャケットのボタン二つ、さっきから外れていたのか? 女たちは面白がって見てただけか。絶対に教えてくれないんだ。そういうものだ。一方、おれたち男連中は、もしもしお嬢さんここに(ふっ!)ちょっと(ふっ!)綿毛がついてますよ。あるいはスカートの後ろホックが外れてますよちらりとお月様が見えてます。教えてやらないと女は怒り心頭。なぜもっと早く言って下さらないの。でも男の人は少し服装が乱れてるほうが好き。やれやれ、ズボンのボタンじゃなくて助かったよ。俺はジャケットを直しながら側廊を通り抜け、正面入り口から光のなかへ出た。目がくらんで冷たい黒い大理石の聖水盤のそばに立っていると、二人の参拝者が浅い聖水にそっと手をひたした。電車が通った。プレスコット染物工場の荷馬車が通った。喪服姿の未亡人がひとり通った。自分も着てるから喪服が目につくんだろうな。俺は帽子をかぶった。何時? 懐中時計は十時十五分過ぎ。まだまだ時間はあるな。あの化粧水をつくらせておくか〔二十世紀初頭はこういうものは特別の調合を必要とした〕。どこの店で? そうだこの前はリンカン・プレイスのスウィニー薬局。まさか引っ越してはないだろう、看板にしている緑と金色の広口瓶は重くて相当動かしにくいはず。あるいはハミルトン・ロング薬局。洪水の年〔1839年〕に創業。ユグノー教徒の墓地があの近くにある。いつか行ってみよう。」
ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』「5──食蓮人たち」)

( ゚Д゚)<幸福の地政学

「田舎で感ずること。──生活の地平にいわば山脈や森林の線のような確乎として安定した線をもたないと、人間の最も内奥の意志そのものが都会人の本性のように落着きなく、散漫に、物欲しげになる、そういう人は何の幸福ももたないし、何の幸福も与えない。」
ニーチェ「高い文化と低い文化の徴候」)