( ゚Д゚)<挫折による検証

「ある男が、岩の下にかくされていると彼が信ずる財産を求めて出発する。次から次に無数の石をひっくり返してみるが何もみつからない。彼はこの企てに疲れるがあきらめることはできない。その財宝はあまりにも貴重だからだ。したがってその男は、ひっくり返すには重すぎる岩をさがしはじめる。その岩に一切の期待をかけようとする。残った力をことごとく費やそうとするのはその岩にたいしてだ。
 マゾヒスト──なぜなら、われわれがたった今定義したのはそれなのだから──とは、まず最初は疲れた主人にほかならない。それは、絶えざる成功、言いかえれば絶えざる失望から、自分自身の挫折をねがわざるを得ないように仕向けられた男のことだ。そうした挫折のみが彼に、正統な神性、彼自身の企てによっても傷つけられることのない媒体を、啓示し得るのだ。形而上学的欲望は、われわれが知っているように、いつも奴隷的境遇に、挫折に、恥辱に、人を導く。」
(ルネ・ジラール『ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』)

( ゚Д゚)<Post-Accident

「航空機事故について読んだことで非常に感銘を受けたのは、因果論を一時棚上げにしろということです。つまり事故が起こったとしたらその直後に起こったことをとにかく因果論なしで、ブレインストーミングみたいに数え上げろということです。普通起こらないようなことなら小さなことでもとにかく数え上げていったら、そういう例外的なことの集まり方の密度がだんだん高くなっている。ついでにいうとサリヴァンは何かがあったらその前は何があったかをきくものだと言っていますね、何をこわして、どこの道を突っ走ってといったことでなくて。犯人探し型の事故調査というのはとにかく他の人たちが責任を免れるように、運転手であるとか、操縦士であるとか、とにかく悪い人を作ってしまうのです。こうすれば、全部問題はなくなり消去されるわけですけれど、システム全体はこれではちっとも良くならないわけです。犯人探し、責任者探しをいったん棚に上げて全体を眺めてみることが経験を生かすということにつながると、私は思います。これが事故が起こる確率を少なくするように状況を変えてゆく力になります。」
中井久夫「危機と事故の管理」)

( ゚Д゚)<戦争の発明

「この名称の利点の一つは、狩猟と戦争の新しい区別の仕方を提案していることである。というのも、確かに戦争は狩猟から派生するわけではなく、また狩猟そのものも特に武器を発達させるわけではないからである。狩猟は、武器と道具が未分化で相互転換が可能な次元で行われるか、それともすでに道具から区別されて武器として構成されたものを自分流に使用するかのどちらかである。ヴィリリオが言うように、戦争が出現するのは、人間が人間に対して狩猟者と動物の関係を適用するときではなく、逆に、人間が狩猟される動物の力を捕捉して、まったく別の対人関係つまり戦争の関係(もはや獲物ではなく敵)に入るときなのである。したがって戦争機械を発明したのが放浪する牧畜民すなわち遊牧民であることは驚くにあたらない──牧畜と調教は、原始的狩猟とも定住的牧畜とも異なるものであり、まさしく投射するものとされるものが作るシステムの発見なのである。一撃の暴力で倒す、言い換えれば「一度だけ」の暴力を構成する代わりに、戦争機械は牧畜と調教によって暴力の経済を、つまり暴力を持続させ無制限にさえする手段を樹立したのである。「流血や即時の殺害は暴力の無制限の使用すなわち暴力の経済に反するものである。(……)暴力の経済は牧畜民における狩猟者の経済ではなく、狩猟される動物の経済なのである。乗用馬において保存されるのは馬の運動エネルギーと速度であって、もはや蛋白質ではない(発動機であって、もはや食肉ではない)。(……)狩猟において猟師は野獣の運動を組織立った屠殺によって停止しようと目指すのに対し、牧畜民は野獣の運動を保存し始める。調教によって、騎乗者はその運動に合体して方向を与えつつ加速させようとするのである。」機械の発動機はこの傾向を発達させたものであるが、「乗用馬は戦死の最初の投射機であり、彼の最初の武器システムである。」」
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「遊牧論あるいは戦争機械」)

( ゚Д゚)<愛の才能

「ことほどさように作家は妄想の解消と愛の欲求の突発とを相互に密接に結びつけ、用意周到にも、必然的に愛の告白に突破口を探らせる。作家は妄想の本質を彼の批判者以上に知悉している。熱烈な恋愛という要因が、妄想成立への抵抗という要因とつかず離れずであることをわきまえている。そして治療を企てる娘に、ハーノルトの妄想のなかの彼女に都合のよい要因を感じ取らせる。この洞察があってはじめて、彼女は断固治療に専心することができる。彼に愛されているという確信があってはじめて、彼女はあえて自分の愛を彼に告白する気になるのである。施療は、ハーノルトが自分の内部から解き放せない抑圧された記憶を外部から彼に再現してやることにある。この施療はしかし、治療医の女性が施療しながらいろいろと感情を顧慮しなければ功を奏さないだろう。ということは妄想を翻訳すると、結局、こんなことばになるしかないということだ。分かったわね、これはみんな、あんたが私を愛してるってことなのよ。
 作家は彼のツォーエに、幼なじみの友の妄想治療にまっしぐらにおもむかせる。……
 グラディーヴァの治療法と精神療法の分析方法との似ている点はしかし、抑圧されたものを意識させること、啓発と治療を一致させることという、以上の二点にかぎられるものではない。両者の類似点は、変化全体のなかでもそれこそれが本質的なものであると分かっているもの、すなわち感情のめざめにまで及んでいる。私たちが学問(科学)においてふつう心的神経症と呼んでいるハーノルトの妄想に類似した精神障害は、いずれも欲動生活の一部の抑圧、忌憚なくいえば性欲動の抑圧を前提にしており、無意識の抑圧された病因を意識に導入しようとすると、その度にかならず当該の欲動という要素とそれを抑圧する諸力との戦いがあらためてはじまり、しばしば激しい反応を呈しながらついには抑圧する諸力と等化されてゆく結末に終わるのである。性欲動のさまざまな要素を一口に「愛」と要約するなら、回復過程で愛の再発が起こってくるのだ。この再発は避け難い。というのも再発防止のために施療している病気が、以前の抑圧への戦い、あるいは愛の再発への戦いの沈殿物にほかならないからである。この沈殿物を解消したり、きれいに排除したりするには、以前と同じ情熱が新たに昂揚してこなければならない。精神分析治療はいかなるものにまれ、病気の症状にわずかな妥協な突破口をみつけた、抑圧された愛を解放してやる試みなのである。さよう、『グラディーヴァ』において作家が記述している治療過程との一致点は、分析的精神療法でも、愛なり憎悪なり、ふたたびめざめた情熱がその度に医者個人の人格を対象に選ぶ、ということをつけ加えるなら完璧なものになる。
 グラディーヴァの場合を医者の技術が及びもつかない理想例に仕立てている相違点は、むろん一つや二つではない。グラディーヴァは無意識から意識に押し入ってくる愛に応えることができる。しかし医者にはそれができない。グラディーヴァは彼女自身が以前の抑圧された愛の対象であって、彼女の人格は解放された愛の努力にただちに欲求に見合うだけの目的を提供してやれる。対するに医者は、本来が赤の他人であった。治療が終わればまた他人行儀にふるまわなければならない。……」
フロイト「『グラディーヴァ』における妄想と夢」)

( ゚Д゚)<お兄ちゃん受信中

「私は妹を殺さなくてはならない。さもなければ彼女は死ななくてはならない。これは、命じられた日時をまえにして避けられない強制、良心的な責務とも言えるものだ。しかも彼女の了解のもとで殺すこと。供犠のさいの悲愴な聖体拝領のごとく。……どうして夢の中で妹を殺さなくてはならないのだろうか。おそらく、性行為によって他者を殺す恐れ、……性行為を遂げることは、(他者、つまり母の心像を)殺すことだ。感情の吐露と熱気における犯罪。そこから抜け出す唯一の方法は、相手(母)の承諾を得ること、彼女(母)が死ぬことに同意した殺人をなすこと、彼女が死ぬことが避けられないものとすること。死の運命が必要なのだ。そうすれば、私は罪責感から解放され、彼女は満足して僕の手の中で死ぬのだ……。」
ルイ・アルチュセール「未発表資料」)