( ゚Д゚)<DEAD OR ALIVE

「われわれは、生けるものか死せるものかのどちらかを選ばねばならぬ。生けるものは、どこにあろうとも、「神」の焔であり、死せるものは、やっぱり死せるものだ。わたしがこれを書いている部屋のなかには、死んでいる小卓がある──それはかすかにさえ存在していない。また、ごく他愛のない小さな鐵のストーヴがあるが、これはある未知の理由によって生きている。また、鐵製の衣裳トランクがあるが、これもまた、いっそう不可思議な理由によって生きている。さらに、数冊の本がある──が、その単なる風袋は死んでいる。完全に死んでいて、実在しない。睡っている猫もいる──こいつはたいした生きかただ。ガラスのランプがある──が、残念ながら死んでいる。
 この違いはどこから生じるのか? だれがそれを知ろう。だが、あくまでも違いは存在する。そして、わたしにはそれがわかっている。
 そして、すべての生動感の根源をわれわれは「神」と呼ぼう。すべての死の集計は人間とでも呼ぶか。
 そして、生けるものの生動感がいずこに存するかを発見しようとするならば、それは、生けるものとあるなにものかとの間にある、一つの不可思議な関係に存することがわかる。だが、そのあるものとはなんであろうか──わたしにはわからない。ことによると、生けるものと他のすべてのものとの関係であるかもしれぬ。生動感は、流動し変化してやまぬ醜もしくは美なる関係のうちにある。あのなんの変哲もない鐵ストーヴはなにものかの一部である。ところが、この細脚のテーブルはなににも属していない。切り落とされた指のごとき、単なる不連続のかたまりにすぎない。」
D.H.ロレンス「小説」)

( ゚Д゚)<描写の無-力・2

「しかし、感情がそこで展開するところの持続、それは諸瞬間が相互に浸透し合っているような持続であって、それゆえ、感情は生きている。にもかかわらずわれわれは、これらの瞬間を互いに分離し、時間を空間のうちで展開することで、この感情からその生気と色合いを奪ったのである。かくしてわれわれは自分自身の影を前にすることになる。われわれはみずからの感情を分析したと思い込んでいるが、実際にはこの感情に換えて、不活発な諸状態──これらの状態は語に翻訳することが可能で、その各々が、一定の事例において社会全体によって感じられる諸印象の共通要素、それゆえ非人格的な残滓を構成している──の併置を持ち出しているのだ。われわれがこれらの要素について推論を行ったり、それらにわれわれの単純な論理を適用したりするのもそのためである。諸要素を互いに孤立化させるというただそれだけのことで、われわれはそれらを類へと祭り上げ、それらが将来の演繹に役立つよう準備したのである。今仮に大胆な小説家が、われわれの慣例的な自我を巧妙に織り込んだ生地を引き裂いて、この見かけ上の論理のもとに根底的な不条理を示し、これらの単純状態の併置のもとに数々の多様な諸印象──これらは名付けられる瞬間にはすでに存在することをやめているのだが──の限りない浸透を示してくれるならば、われわれ自身以上にわれわれのことを知っていたということで、われわれはこの小説家を賞讃する。しかしながら、事情はまったくそうではない。われわれの感情を等質的時間のうちで展開し、その諸要素を語によって表現するというまさにそのことからして、この小説家がわれわれに呈示するのもやはり感情の影でしかない。ただし彼は、影を投げかけた対象の異常でかつ非論理的な本性にわれわれが勘づくような仕方でこの影を扱った。表現された諸要素の本質そのものを構成しているあの矛盾、あの相互浸透の何がしかを外的表現のうちに置き入れることで、彼はわれわれを反省へと誘ったのである。この小説家に励まされて、われわれは、自分の意識と自分自身のあいだにみずから介在させていたヴェールを、しばしのあいだ取り除いた。彼のお陰で、われわれはわれわれ自身の眼前に置き直されたのである。」
ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』)

( ゚Д゚)<不可触の逆理

「バナッハ-タルスキの定理はこのようにして証明されたが、この逆理で述べていることは、私たちの想像をはるかに超えている。そこには想像を絶するものがあるといった方がよいかもしれない。
 一つの球と、その2倍の大きさの球が与えられたとき、たとえ、前節で与えた証明の粗筋を詳しく追ってみたとしても、私たちは具体的にどのような部分集合をとり出して、組み立て直すと、2倍の球ができるのか、全然わからない。選択公理を用いているから、私たちの側には、構成の手段はないのである。
 構成する手段がないということを、もう少しはっきりいえば、本当にそのような部分集合が存在しているかどうかを、私たちの認識のなかで確認する道はないといってよいのである。選択公理を認めれば、そこからの単なる論理的帰結として、そのような部分集合の存在が導かれるが、選択公理を認めない立場をとれば、この部分集合を特定することはできなくなって、存在するかどうかの議論をすることなどはじめから何の意味ももたないものになってしまう。
 バナッハ-タルスキの定理は、一度、選択公理を認めれば、無限の世界は、私たちのもつ直観の働く、いきいきとした世界から切り離されて、選択公理から導かれる論理的な演繹のみ働く一つの形式の世界となり、最終的には、私たちの時空認識の中では捉え難いようなことを、この形式の中で示してみせたということになっている。……
 たとえば、ある命題が、10次元以上の空間でだけ定式化されるようなものであり、この命題の証明に、陰に非構成的なものが用いられ、最終的に、命題は、私たちの、3次元でのふつうの直覚でみれば、まことに奇妙な形をとって述べられているとする。そのとき、私たちはこの‘奇妙さ’が非構成的な方法を用いたことによるものなのか、10次元以上という直観の達しない世界から生じたものなのか、直ちに見分けることができるだろうか。
 私の一つの安堵は、バナッハ-タルスキの定理が、3次元という中で述べられていたことによっている。3次元は私たちの経験世界の中だから、私はこの定理に、逆理という紛れもない感じを抱くことができた。もしこれが10次元以上の空間でしか述べられないようになっていたら、最初にそれに出会ったときの、私の当惑はどのようなものであったろうか。想像の中でさえ、このような思考に耽ることは、私を奇妙な気分へと陥れるようである。」
志賀浩二『無限からの光芒』)

( ゚Д゚)<聖なるたわごと

「「美人はめったにいい女優にはならんものでしてね」と彼は言っていた──「俳優にはなにか短所が必要なんです──長すぎる鼻とか、すこし焦点のあわない目とか。いちばんいいのは変った声をもつことです。人間というのは、なかなか声は忘れないものですから。たとえばポーリー・ロードみたいな声はね」彼はモーナのほうを向いた。「あなたはいい声をおもちです。あなたの声にはざらめと丁子とにくずくがはいっている。いちばん悪いのはアメリカ人の声ですよ──魂がはいっておいらん。ジェイコブ・ベン・アミはすばらしい声をもってました……うまいスープのような……けっして腐ったりしない声を。もっとも彼は、その声を亀の子のように引きずりまわしましたがね。女優はまずなによりもいい声を育てあげなきゃならん。同時に、もっと脚本の意味についてよく考えることだ、自分の格好のいいポスティリオン……じゃない、臀部〔ポステイリア〕のことばかり考えていないで。ユダヤ系の女優はどうも肉づきがよすぎましてね、舞台の上を歩くとゼリーみたいにブヨブヨふるえるんじゃかないませんよ。しかし、彼女たちの声には悲しみがこもっています……悲哀が。彼女たちは、悪魔が赤く焼けたやっとこで乳房を引きちぎろうとしているなどと想像する必要はありません。そうです、罰と悲しみは最良の要素ですよ。それと、少量の幻想は。ウェブスターやマーローの作品に見られるように。たとえば、便所へゆくたびに悪魔に話しかける靴屋とか。あるいは、モルダヴィアに伝わっているような、豆の茎と恋に陥る話。アイルランド演劇は気違いや酔っぱらいでいっぱいですが、彼らの口にするたわごとは聖なるたわごとです。アイルランド人はいつも詩人なのです。とくに、彼らがなにも知らないときには。彼らもまた苦悩をへてきていますからね、ユダヤ人ほどではないでしょうが、しかし十分に。だれだって、日に三度三度、じゃがいもばかり食べたり、爪楊枝がわりに三つ叉を使ったりしたくありません。偉大な俳優ですよ、アイルランド人たちは。生まれながらのチンパンジーです。イギリス人はあまりにも洗練されすぎ、あまりにも頭で考えすぎますからね。男性的な人種だが、去勢されているというか……」」
ヘンリー・ミラー『ネクサス』)

( ゚Д゚)<姦通の現象学

「AやBという男は、自分の妻との生活に満足しているわけではないし、相手の女をきらっているわけではないのに、彼らは、性行為が自分の家に於けるものと較べて、満足をあたえないことを知っておどろく。生理的にいえば、Aの相手の女性は、特殊な快楽を男にあたえることができる女である。にもかかわらず、まったく空虚なうらがなしい気分にひたってしまうのはどうしたことか。
 その理由は、簡単である。姦通の終点は性行為で、その次の逢引もまた性行為で終わり、いつまでたっても、そのくりかえしにすぎないからだ。
 通常は情事が終わったあとの味気なさは、男にとって、一息ついて、明日また食事をし、勤めに出るということと結びついている。それから、どのような生活にしろまた開始するものがある。性行為はほんの一部分になり、忘れることができる。
 これに反して姦通では、唯一の終点である性行為は、そこで行止りになる上に、一回一回が、そこにいない亡霊のような夫のことを想起させるので、いやでも性行為は鮮かに、うかびあがる。男はここで、娼婦との性行為の方が、はるかに健康であることに気がついて、ふたたび愕然とするのだ。
 なぜなら、娼婦は、(とくに私娼は)その性行為でもって生活をしているから、はたが何といおうと、彼女が誇りさえすてなければ、りっぱに生きているといえるからだ。
 Bの相手の女性は職業をもっているが、大ていの姦通をする妻はそうではない。彼女はほかの男と性行為をするところの肉体を養っている金は、とにかく、主人の方から出ている。
「信じてね。私、あなたとのことがあってから、主人にはずっと拒みつづけてきてるのよ」
 と女が若い男に打ちあけたあと、それが、良心的な女であれば、たぶんこういうであろう。
「私、このごろ何とか自分の生活費だけはかせぎたいと思うの。主人に世話になっているかと思うと、とてもつらいわ」
 しかし女が夫から純粋になろうとする努力をいくらしたとしても、実は、益々性行為を純粋に性行為にしようと努力しているだけなのであって、気の毒なことに、こうして女は娼婦よりももっと性行為だけの存在にならざるを得ない。」
小島信夫『実感女性論』)

( ゚Д゚)<男のなかのオス

「私は宗教心の強いアメリカ婦人とおなじ屋根の下でくらした。彼女は三十代の女盛りであったが花模様の質素な服をまとい十九世紀ふうな髪を束髪に結い、口紅をぬった姿は一度も見せたことがなかった。私は彼女と頬と頬がふれるような近い距離で、事務的な打合せをしたり、教会の話をきいたりした。私は神聖と見える教会の宣伝のお話を耳にしながら、やはり僅かながらほんの僅かながら彼女が女であることを意識していた。そして彼女のいうままに宣伝にのって教会の会員の一人になり、彼女を喜ばせたいと思うこともしばしばだった。
 彼女はハイ・ヒールをはいていなかった。いつも女学生のはくような質素な靴をはいていた。さてある日、彼女は私のための教会の会合に出ることになった。黒いハイ・ヒールをはき、セーラー服のようなものを着て自分の部屋からあらわれた。子供は母親のその靴の中に自分の足をいれて歩いていたが、そして、これはオバサンの結婚式にママが買ってはいたものだといった。
 彼女は目がさめるように美しく見えたが、やはり口紅はぬっていなかった。そして颯爽と私をのせて車を教会まではこんで行った。そこで私は六十人の女達にスキヤキを作ってみせたあげく、「神はすべての人を愛す」と書いた日本式のかけ軸マガイの物がぶらさがった壁を背にして親睦会がひらかれ、私は彼女らの祝福をうけた。六十人の中でも彼女は美しさではきわだっていたが、唇をそめていないのは彼女一人であった。私はとうとう最後まで彼女からは、かすかに女の匂いをかぐことは出来たが、雌の匂いはかぎ出すことができなかった。私は彼女の家を出ることになったとき、今更のように感嘆した。彼女は異国の男性のトマドイを知っていたのだ。」
小島信夫『実感女性論』)