( ゚Д゚)<ハイデッガー VS アインシュタイン

「したがって、物理学の対象としての運動は、時間の助けによって測定される。測定を可能にする、ということが時間の機能なのである。物理学においては運動はいつでも測定可能性を顧慮して考察されるのだから、運動は、例えば、時間そのものが排除されていても物理学的認識は存在するだろうといったように、ただたまたま時間と関係づけられるにすぎないのではなくて、先に運動方程式が示したように、時間こそが運動の定義における必然的契機を形成しているのである。運動は、こうした時間との必然的結合によって、はじめて数学的物理学的に把握可能なのである。いまや時間が物理学の対象の、つまり運動の、数学的規定性という可能性の条件として認識されているのだから、われわれは最後の問い、つまりこの時間概念の構造に対する問いに答えることができる。運動方程式 x=x(t), y=y(t), z=z(t) において、時間は独立変数として前提されている。しかも時間は絶えず変化する、つまり、一つの点から別の点へと飛躍なしに一様に連続的に流れてゆく、というように前提されている。時間があらわしているのは単一の方向をもった系列であって、その系列のなかでは、各時点は出発点から測って、ただその位置によってのみ区別されるのである。一つの時点は先行する時点から、それが後続の時点である、というように区別されるし、ただそのようにしてのみ区別されるということ、このことによって、時間を測定し、それによって運動を測定することが可能となる。時間が測定されるや否や──測定可能な時間、測定されるべき時間としてのみ、時間は物理学のなかで有意味な機能をもっている──、われわれはその限りでの或る大いさ〈ein Soviel〉を規定する。その限りでのその大いさを挙示することは、それまでに流れさった時間点を一つにまとめることである。われわれはいわば時間尺度のなかに切り込みを入れ、それによって流れの内にある本来的時間を破壊し、時間を凍結させるのである。流れは凍りつき、面となり、そしてただ面としてのみ流れは測定されうるのである。時間は一つの均質的な位置の秩序となったのである、つまり、尺度に、パラメーターになったのである。
 自然科学の時間概念に関する考察を終える前に、なお一つの反論が考慮されねばならない。これまで述べてきたことのなかには、物理学の最新の理論、つまり相対性理論が顧慮されていなかった、という指摘がなされるだろうからだ。相対性理論から帰結される時間の理解は、「これまで思弁的な自然研究によって行われた、さらには哲学的認識論によってなされた一切のことを、大胆さにおいて凌駕している」。
 しかしながら、たいていは次のことが見過ごされるのである。すなわち、一つの物理学理論としての相対性理論においては、時間測定の問題が扱われているのであって、時間そのものが問題になっているわけではないのだ。相対性理論によっては、時間概念は手つかずのままである。実際、相対性理論は、先に自然科学の時間概念の特徴として明らかにしたこと、つまり、量的に規定可能な均質的なものという特徴を、ただ高い程度に確証しているにすぎない。」
マルティン・ハイデッガー「歴史科学における時間概念」)